溜まりに溜まった書籍や雑誌を、少し整理した。
その中に、『 豊後国風土記 肥前国風土記 』と『 新・肥前風土記 』の2冊を見つけた。かつて、古代の北部九州を考える上での参考にと買ったもの。
周知のとおり、風土記(ふどき)とは、一般には地方の歴史や文物を記した地誌のことを指すが、狭義には、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書をさす。
現存するものは全て写本で、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態で残る。
先だって、当サイトのコメントの中で、肥前国エリア出身の元同僚Y氏のことが話題に上ったこともあって、改めて読み返した。
『 新・肥前風土記 』ー 第6章 文明のクロスロード ー の「登望駅(とものえき)」※ で、著者の横尾文子氏は、次のように述べている。
… この波こそ、日本列島にとって新しい歴史を開く文明の波であった。
稲や織物、青銅や鉄、焼物や建築とその技術、法律や制度、思想などなど。
今日の日本文化を、外側から形成し、伝播してきた波である。
ある時は逆波となって、倭寇が、秀吉が大陸へ侵攻したこともある。玄界灘に面した東松浦地方は、文化の行き交う、まさに文明のクロスロードとしての基地であった。
※『 登望駅 』は、唐津市呼子町大字小友付近に比定するのが定説である
また、横尾氏によれば、「登望駅」の東側、『大友の海岸』の砂丘の下から150体余りの弥生時代の人骨が発見された(1999、2000年調査)。
解剖学者の所見によると、これまで佐賀・福岡両県の弥生時代の墓から発見された人骨とは、形質を異にしているという。上体がしっかりとし、顔が短く、彫りが深い。
のっぺり顔の佐賀平野の弥生人とは、際立った違いがあると解剖学者はいう。
前者は、佐賀県北部から長崎県にみられる西北九州型弥生人で、後者は北部九州型弥生人である。
西北九州型は漁労に適した体形、北部九州型は新来の形式で、農耕に適しているといわれている。
大友の弥生人は漁労民というべき人たちである。
文明の運び手は、打ち寄せる波と、上体のしっかりした彫りの深いこの人たちであった … と。
参考に魏志倭人伝の「 末盧國(まつろこく/まつらこく)」の記述を見てみよう。
「又、一海を渡ること千余里にして末盧国に至る。四千余戸有り。山海に浜して居す。草木茂盛し、行くに前人を見ず。魚鰒を捕るを好み、水の深浅無く、皆、沈没してこれを取る。」
「(一大国から)また、一海を渡ること千余里で、まつろ国に至る。四千余戸があり、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が見えない。魚やアワビを好んで捕り、水の深浅にかかわらず、皆、潜ってこれを取っている。」
ところで、佐賀県唐津市呼子町(旧肥前国松浦郡呼子)の加部島に『 田島神社 』がある。その主祭神の3柱は、宗像大社祭神の宗像三女神に同じ姫神。
この地域は魏志倭人伝の中で倭国本土の最初の地として登場する末盧国にあたる。
大陸への最も安全な渡海ルートの要所であり、上代以来中央政府の重用を受けてきた。
遣唐使の記録の中では、松浦の湊という漠然とした記載しか見うけられない。
しかし、肥前國のみならず、福岡周辺の有力神社に比べても特別扱いとも言える神階の高さが見られることや、朝廷の遣唐使の記録とも繋がる社伝があることから、単なる遣唐使の寄港地ではなく、朝廷に近い存在の宗像大社に協力する北部九州沿岸土着の神社代表としての役割を求められていたともいわれる。
この地域は、北ルート(呼子・壱岐・対馬ルート)に限らず、南ルート(五島より横断ルート)・南島ルートにおいても必ず通過する地点である。
終始、土着の神社代表として遣隋使・遣唐使運航に積極的に関わり続けた結果が神階の特別扱いになったといわれている。延喜式神名帳(927年)の中で肥前国唯一の名神大社としての崇敬を受けているのも同じ理由と考えられている。
面白いことに、『 宗像大社 』の辺津宮の所在は、「福岡県宗像市田島」。
この辺津宮、地元では、古来から「田島さま」とも呼ばれてきた。
2003年の市町村合併で、「宗像郡玄海町田島」から現在の所在地になったものだ。
一方、呼子町の『 田島神社 』の西隣は、東松浦郡「玄海町」である。
一般に、「田島神社」は宗像大社の三女神を勧請したものといわれているが、「田島神社」こそが、宗像「辺津宮」の元宮と考える研究者もいる。
こうした話は、とても興味深い。
話は変わるが、以前、郷土料理「だぶ」のことを書いた。
佐賀県から福岡県にまたがって伝承されている「だぶ」は、鶏肉と季節の野菜を入れて作る郷土料理だ。
その発祥は、唐津市といわれる。
福岡県宗像市では、「だぶ」が訛化し「らぶ」と呼ばれる。
唐津と宗像をつなぐものは、『海人』である宗像氏であろう。
上代以前の宗像氏の伝承に依れば、海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る広大な海域を支配したとされる。
また宗像大社を奉じる一族も「宗像氏」(胸形氏、宗形氏、胸肩氏とも)を冠する事がある。
「胸形」とは、胸に文身(入墨)をしている意だともいう。
魏志倭人伝の「第二章 倭の風俗 15.黥(いれずみ)」の記述は、
男子は、大 (人も、身分の高い人も、またはおとなも) 小 (人も、身分の低い人も、またはこどもも) なく、みな面に黥(いれずみ)をし、身に文をして (からだの表面に絵もようを描いて) いる。
古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫 (一般に大臣)と自称している。
夏 (中国古代の王朝) の后 (王) 少康 (夏六代の王) の子は、会稽 (いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地) に封ぜられたとき、(人々は) 髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。
いま、倭の水人 (海人) は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを) やや飾りとしている。
諸国の (者の) 身を文にする (仕方) は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑 (の階級によって) 差がある。
倭の水人(海人)とは、何者か。
筑紫の古代史に深く関わる「宗像」、「安曇」、「住吉」の海人。
玄界灘を我が庭とし、壱岐、対馬、さらには朝鮮半島、中国沿岸を縦横無尽に往来した古代の海人たち。
まだまだ、迷路から抜け出せそうにない。
<「 ー だぶ汁と海人族、そして秋月藩 ー 」はこちら>
<「 ー 西海道 古代史の迷路 ー」はこちら>
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