ー はじめに ー
ここで言う「西海道(さいかいどう)」は、古代日本の律令制における、広域地方行政区画である五畿七道(ごきしちどう)一つである西海道のことである。
五畿は、畿内ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせた地域。
七道は、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道である。
西海道は、今の九州にあたり、8世紀初頭ころには、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向の7か国と壱岐、対馬の2島からなっていた。のちに薩摩・大隅が日向から分置され、九国二島となる。
日本の西端にあり、朝鮮半島や中国大陸への玄関口にあたるため,古くから文化流入の上ばかりでなく外交・国防上の重要地域であった。
6世紀ころに大宰府(筑紫大宰(つくしのおおみこともち))が置かれ,北九州を中心とする地域の支配管理に当たっていたことがそれを裏づける。
かつて、ある出来事をきっかけに、日本人とユダヤとの関係に感興を持つようになった。
そして、ユダヤ、渡来人、秦氏、八幡宮、神社、八百万の神々、古事記、日本書紀などへと対象も広がっていった。
とは言え、日本の歴史を学んだのは中学までで、古典なども苦手中の苦手。
万葉集? 英語のさらに先にある外国語…
理解に必要な日本史などの基本となる知識がないうえ、体系的に様々な事柄を丹念に検証することも不得手なので、何かしら成果もなく、人様に自説を披露することなどできるはずもない。
ロマンではあるが、少し違う。迷宮でもない。
様々な出来事が、時を超えて3次元的に交差する迷路のように思える。
頑迷なアカデミズムに囚われた学説や不毛な論争からは離れて、記紀を縦糸に、かつて海峡を往来した人々と神社や信仰を横糸に、織りなす古代の西海道に想いを馳せてみたい。
ー 令和元年12月14日 ー
2024年
7月
12日
金
今日、12日から、ファン待望の実写映画「 キングダム 」シリーズの4作目『 キングダム 大将軍の帰還 』が公開された。
T・ジョイ博多のドルビーシネマで鑑賞。
映画の内容について云々することはしないが、不覚にも涙落してしまった。
それはともかく、この物語の舞台は、中国春秋・戦国時代の末期、紀元前3世紀半ばの話だ。
紀元前3世紀と言えば、日本列島では、「弥生時代」だ。
金属器(青銅器・鉄器)は使用されてはいたものの、石器も使われており、「金石併用時代」とも呼ばれる。
生活にしても、高床住居も見られるが、竪穴住居の方が多い。
ちなみに、始皇帝陵兵馬俑坑は、始皇帝麾下の軍団を写し、指揮官・騎兵・歩兵などの異なる階級や役割を反映させた俑である。
武士俑(兵士俑、歩兵俑)、御手俑(御者俑)、立射俑、跪射俑、騎兵俑など、これまで約8,000体の俑が確認されている。
その埇の有様を見るにつけ、中国と日本列島の倭人、ヤマト人とは、月とすっぽん …
このシアターで鑑賞した人の中に、この時代における日中間の甚だしい文明格差を思った人は …
2024年
3月
28日
木
学生の頃のこと。
正月に友人の家に遊びに行くと、雑煮ではなく『 だぶ汁 』なるものが出てくる。
友人と私は、同じ筑豊の育ちだが、私の育った町では『 だぶ汁 』なるもを食べる風習はなかった。
2024年
3月
19日
火
今日、福岡県民の地域性は、
「 北九州 」、「 福岡 」、「 筑後 」、「 筑豊 」の4地域に分けて語られることが多い。
地域性を大雑把に言うと、
歴史的な地域形成の経緯、交通の経路や手段、経済の状況、さらには、そうしたことを背景にして造り出された文化や住民の帰属意識など、それぞれの地域がもつ総合的な性格のことである。
2024年
2月
26日
月
今年の初詣は、博多区の日吉神社に参拝した。
長年、博多区の住吉神社だったのだが、何しろ人が多い。
とりわけ今年は、新型コロナウイルスの5類移行後、初めての正月。
きっと、参拝するにはとんでもなく時間がかかるに違いない。
そう思ってのこと。
2021年
10月
05日
火
福岡県の甘木・朝倉地方には、神功皇后にまつわる言い伝えや旧跡が数多い。
ー 神功皇后は、神の教えに従って神々を祀り、吉備臣の祖、鴨別(かものわけ)を使わして熊襲を滅ぼし、服従させた。
また、荷持田村(のとりたのふれ)を根城にして暴れ廻る、「羽白熊鷲」(はじろくまわし)は、朝廷の命は聞かず民衆を脅かしてばかりいたので、皇后は兵を差し向けこれを討つ。 ー
日本書紀巻九はこう伝える。
2021年
8月
23日
月
かつて、八女市黒木町に、林業に関する研究を行う「 福岡県林業試験場 」が置かれていた。
老朽化のため、新たな施設が整備され、平成6年、久留米市に「森林林業技術センター」として開所した。
その当時、移転に伴い閉所となった旧試験場の建物解体と跡地の再整備の仕事に関わった。
2021年
8月
13日
金
ー 物部氏とは ー
上代、氏族の一つ。姓(かばね)は連(むらじ)で、軍事・警察・裁判をつかさどる伴造(とものみやつこ)として朝廷に奉仕した。
饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、大伴氏とともにさかえたが、六世紀の中ごろ、仏教の普及に反対し、族長の大連(おおむらじ)であった守屋(もりや)が蘇我氏と皇族の連合軍と戦って敗れ、そのために滅亡した。
畿内の河内国渋川(大阪府八尾市西部)を本拠とし、全国に八十物部(やそもののべ)と称されるほどの同姓氏族ないしは隷属民をもっていた。
(精選版 日本国語大辞典)
2020年
3月
02日
月
福岡から大分方面に向かい、行橋を過ぎると、車窓に筑紫平野とは山容の異なる峰々が展開する。
その中に、かつて豊前修験道のメッカであった「求菩提山」がある。
豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する標高782メートルの山で、耶馬日田英彦山国定公園に含まれる山の一つである。
2月23日、そんな求菩提山を歩いた。
2020年
1月
13日
月
「九重山博物誌」は、九重山群の山々や人、いわれや歴史などを紹介した良書だ。
そのなかに、地名に関する記述がある。
ー 地名は文化財だと言われる。それは単に一定の区画された土地を呼ぶための符号ではなく、そこに人々の生活や考え方など、多くのものを秘めているからだ。
そうした目で九重の地名を拾い歩く旅も面白いのではあるまいか。小字を調べてみると。意味も起源も分からない地名がたくさんある。どうしてだろうか、何のいわれあるのかなど。推理を重ねるのもたのしいものだ。ー
2020年
1月
11日
土
西日本新聞の筑豊版で、2018年1月から30回に渡り、福永晋三と往く「新説 日本書紀(やまとのふみ)」が連載された。
福永晋三氏は、元高校教諭の記紀万葉研究家で、「倭国」は「豊国」との自説に基づき、田川と筑豊の古代史を発信されている。
連載第1話のタイトルは、ー 香春岳 「三ノ岳」こそ天香具山か」 ー だった。
記紀や万葉集、古文書などにより、天皇は、古代田川(福岡県田川市)にいたとし、結びには、ー 私は筑豊の人々に、筑豊が古代ヤマトの地であったことを伝えたい。筑豊の真実の古代を知ってもらいたい。「新説・日本書紀(やまとのふみ)」をつづろうと思う ー と書かれていた。
かなりの驚きと感興を覚え、その後の連載を読み続けたのだった。
<福永晋三「新説 日本書紀 (やまとのふみ)」はこちら>
2019年
12月
17日
火
筑豊で、生まれ育った。
成長の過程で形成されていった表象の中心は、「炭鉱」である。
筑豊は、炭田から産出される石炭により、かつて我が国の四大工業地帯の一つであった北九州工業地帯とともに発展した地域だ。
ボタ山、炭坑節、遠賀川、川筋気質、「花と龍」、「青春の門」…
そこに登場する博徒・やくざ者たち。
荒々しく、多くの無法者がいる世界…
そんなイメージが形作られていった。
石炭の運搬路であった遠賀川は、福岡県嘉麻市の馬見山に源を発し、彦山川、犬鳴川などの支流を合わせながら筑豊地方の平野部を流れて北部の響灘へと注ぐ。
明治以降の国策により、遠賀川の下流から上流へ遡るように炭田の開発が進むことで、急激な発展を遂げた地域。
そこには、誇るべき古代の歴史もなければ、さしたる伝統・文化も存在しない。
不勉強な私は、そんなふうに思っていた。
2019年
12月
14日
土
働き始めたばかりの頃、同じ職場に「ハタさん」という名字の先輩がいた。
ある日、そのハタさんと立ち話をしていると、近づいてきた彼の上司E氏が、” ユダヤ人二人が何話してんだ ” と言った。
” ユダヤ人 ” … 何のこと???
ハタさんは長身で足が長く、肌は少し浅黒い。目が大きくて鼻も高い。かなり濃い顔立ちだった。
欧米人とは違うが、確かに、多くの日本人とは異なる容姿だった。
そんな人なので、結婚式場やチラシのモデルみたいなこともやっていた。
そして、本家は対馬宗家だとか。
E氏は、古代史などの研究をライフワークにしている人で、何やかんや語ったが、まるで理解できなかった。