韓国岳の山頂に立つと、東北東に『夷守岳(ひなもりだけ)』が見える。
小林市の山麓から見上げる姿は雄大で、生駒富士とも呼ばれている。
ひ・な・も・り … 趣のある語感だ … かつてそう思った。
2000年をしばらく過ぎた頃、夷守岳山麓の台地に、『 ひなもりオートキャンプ場 』がオープンした。
全国屈指の高規格キャンプ場として注目を集め、現在に至っている。
一度は訪れてみたいと思い続けてきたが、なかなか実現せぬまま …
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そんな中、時折、古代史や記紀に関する書籍を読むようになって、『 夷守岳 』の謂われを知ることになる。
山の名前は宮崎県の小林盆地付近を指す古地名の「夷守」に由来し、江戸時代には雛守岳とも呼ばれたと。
では「夷守(ひなもり)」とは …
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ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国、あるいはヤマト王権の国境を守備する軍事的長の名称とされる。
のちに地名、駅名(伝馬制の施設)、神社名等としても残る。
またヒナモリの「モリ (守)」は、姓(カバネ)としても使われた。
ちなみに、『 日本書紀 』の『 景行天皇紀 』では、登場する兄夷守・弟夷守が所在した所であり、現在は「宮崎県小林市細野夷守」となっている。
701年(大宝元年)に大宝律令を完成させたヤマト王権は、その律令に基づいて戸籍造りを本格化させた。
その意図するところは、戸籍制度の導入による人民の領域的区分による租・庸・調・雑徭の租税制度の確立と、それらを基礎とした国家運用の財政経費の財源確保である。
九州でも、戸籍造りと郡司の選任に着手されたが、702年(大宝二年)、 薩摩・多褹(たね)地方では、これに対する抵抗が起こった。
『 続日本紀 』(714年、和銅七年三月壬寅条)によれば、大隅国の設置の際、隼人との軍事衝突が起こり、この翌年三月には、政府の法令に従わない隼人を導くために豊前国の民200戸を移住させたとある。
” 隼人昬荒、野心未習憲法。因移豊前国民二百戸、令相勧導也 "
隼人(はやひと)、昏荒野心(こんくわうやしむ)にして、憲法(のり)に習はず。因(よ)りて豊前国(とよくにのみちのくに)の民(たみ)二百戸を移して相勧(あいすす)め導(みちび)かしむ。
この記述によると、隼人が道理に暗く愚かで法に従わないため、彼らを教導するため、豊前国の民200戸 (約 4000~5000人) を移住させたというのである。
その移住先は、前年に大隅国の建国記事が見えるので、大隅国府の周辺で桑原郡を主とした一帯ではないかと推定されるが、具体的に地域を限定することは難しい。
豊前国は、新羅・加羅からの渡来人が多いこと、とりわけ秦(はた)氏という機織(はたおり)をはじめとする諸技術にすぐれた集団が居住していることに注目し、その秦氏が移住して養蚕を主に指導したのが桑原郡の地名の由来になったのではないかと推定する研究者もいる。
現小林市の『夷守』は、韓国岳をはさんで、西の隼人勢力と、東のヤマト王権の勢力が対峙する軍事的、政治的最前線の地域だったのであろう。
そして、『夷守』の地に移り住んだ朝鮮半島からの渡来人、豊前国の民が名付けたであろう「韓国岳」。
その韓国岳の山頂に立つと、えびの市および小林市にかけて広がる加久藤盆地(かくとうぼんち)が広がる。
いにしえの昔、この地に移り住んだ豊前の民の思いは …
片や、それと対峙した隼人の思いは …
この背景には、また違った歴史的ストーリーがあるのか … (つづく)
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