学生の頃のこと。
正月に友人の家に遊びに行くと、雑煮ではなく『 だぶ汁 』なるものが出てくる。
友人と私は、同じ筑豊の育ちだが、私の育った町では『 だぶ汁 』なるもを食べる風習はなかった。
文化庁の平成28年度 『伝統的生活文化実態調査事業報告書 【郷土食】』によれば、
『 だぶ汁 』とは、
<由来と特徴>
名称の由来は、片栗粉を入れる汁物のため、汁が「 だぶだぶ 」になり「 だぶ 」と呼ぶようになったという。
さらに訛って「らぶ 」とも呼ばれるようになった。
分布域は福岡県北西部から佐賀県唐津市東部の地域 で、「 だぶ 」と呼ぶところが多いが、調査を行った宗像市では「 らぶ 」と呼ぶため、以下「 らぶ 」と記述する。
「 らぶ 」は仏事と祝い事のお膳の汁物として出されてきたもので、特にお斎には必ず出された。
宗像の葬儀は親族が集まり、お斎として、お別れのお膳をともに食べてから午後に式が始まる。
そのお膳の汁物が「 らぶ 」であった。「 らぶ 」には精進料理として食材の決まりや食べ方のいわれなどがある。さらに祝いの席や日常でも食べられているところが特徴である。
『 だぶ汁 』を食す地域を見ると、
佐賀県では唐津市、福岡県では主に、宗像市、福津市、古賀市、朝倉市、嘉麻市、桂川町などだった。
この広がり方は … よくわからんな … ?
後年、捕鯨に関する文献の中に、『 だぶ汁 』に関する記述を見つけた。
大雑把に言うと、福岡藩主の黒田家は、経済政策、産業振興の観点から捕鯨に着目。
松浦党から人を呼を招き、宗像の大島、地ノ島に捕鯨のため組織『 鯨組 』を置いたという。
そうした人的交流の中で、福岡藩に『 だぶ汁 』がもたらされ、黒田如水をはじめ、長政などの歴代藩主は『 だぶ汁 』を好んだという。
もともと海人族の交流域は、とても広い。
『 鯨組 』設置のはるか昔から、宗像地域にもたらされていた可能性も考えられる。あるいは逆に、宗像から唐津に伝わった可能性もある。
唐津、宗像、福津、古賀、そして博多、いずれも玄界灘に面した地域。
その広がりも理解できる。
がしかし、朝倉市、嘉麻市や桂川町はどうしてなのか …
だぶ汁を食べる友人の言葉をふと思い出した。
” おまえは福岡藩で、俺は秋月藩だ ” そう言ったことがある。
旧嘉穂町を南北に流れる大隈川。
川を挟んで西側の古処山山麓は秋月藩、東側は福岡藩だ。
※ ※ ※
1623年(元和九年)、福岡藩初代藩主黒田長政が没すると、その遺言により二代藩主同忠之は弟の黒田長興に、夜須郡・下座郡・嘉麻郡内で五万石を分知し、秋月藩が立藩する。
ちなみに、「旧高旧領取調帳」に記載されている『嘉麻郡』の明治初年時点での支配地域は、
<筑前秋月藩>
小野谷村、上西郷村、椎木村、桑野村、西郷村、光代村、芥田村、東馬見村、馬見村、屏村、大力村、東千手村、千手村、才田村、九郎原村、上臼井村、平山村、飯田村、泉河内村、東畑村
<筑前福岡藩>
宮吉村、上村、大隈村、大隈町、中益村、下中益村、下益村、貞月村、上下村、牛隈村、熊畑村、上山田村、下山田村、平村、才田村、岩崎村、下臼井村、山野村、口春村、漆生村、鴨生村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、綱分村、川島村、佐与村、大門村、鯰田村、有安村、仁保村、有井村、元吉村、多田村、上三緒村、下三緒村、立岩村、栢森村、鹿毛馬村、口原村、勢田村、赤坂村
秋月藩の初代藩主黒田長興は、黒田長政の次男である。
長政が好んだ『 だぶ汁 』を、長興も好んだのであろう。
やがて、『 だぶ汁 』は秋月の庶民の間にも広がり、のちに古処山を超えて嘉麻郡内の藩領へも広がっていったと考えられる。
海人族であった松浦党と宗像海人に広がる『 だぶ汁 』。
そして、宗像から黒田藩、さらには秋月藩へと広がる『 だぶ汁 』。
一碗の『 だぶ汁 』にも、思いもよらないヒストリーがある。
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