赤い玉と白い玉 … / 古代からつながる福岡の地域性

 

  

今日、福岡県民の地域性は、

「 北九州 」、「 福岡 」、「 筑後 」、「 筑豊 」の4地域に分けて語られることが多い。

 

地域性を大雑把に言うと、

 

歴史的な地域形成の経緯、交通の経路や手段、経済の状況、さらには、そうしたことを背景にして造り出された文化や住民の帰属意識など、それぞれの地域がもつ総合的な性格のことである。

 

 

ー 赤い玉と白い玉 ー

 

県内各地域の支店で仕事をしたある先輩が、かつて語ったことだ。

 

筑後地域のある人の集まりでのこと。

 

赤い玉を差し出して、何色ですかと聞くと、

ある人は ” 青じゃなか … 黒でもなかですね … ”

 

別の人に白い玉を見せて聞くと、

" う~ん 緑じゃなか … 黄でもなかですね … "

 

そう言って、皆で顔を見合わせる。

 

 

同じように筑豊地区のある地域で聞くと、

 

” 赤に決まっとろうが。こっちは白たい。なんでそげなバカなことば聞くとや !! "

と多くが答えたという。

 

 

 

 

他にもある。

筑後地域で、ある道路拡幅工事の用地買収でのこと。

 

回数を重ねた交渉の結果、その必要性に大いに理解を示し、一端は了承した住民地権者ではあったが、後日、

 

” あん時は、あげん言いましたけど、よ~と考えたら、向こう側ば拡げた方がよかとじゃなかかと… ” と言って、用地買収の話は振り出しに戻る。

 

自動車のセールスマンによれば、筑後人との値引き交渉は、総じて大変だったと言う。

 

一方、筑豊人は、言葉・振る舞いともに荒っぽく、難儀だと思うことも多かったが、一度了承してしまえば、決めたことを後日覆すことはなかったという。

 

 

 

 

ところで、考古学者の森浩一氏は、その著書の中で、北部九州といっても、遠賀川の東西で大きな地域差があると指摘している。

 

また、言語学者 東条操氏の説をあげて、方言区画の違いについても述べている。

 

福岡県、いにしえの『 筑紫 』は、その東西で、様々に大きな違いが見られるというのである。 

 

 

     ※      ※

 

 

筑後地域は、広大に広がる筑後平野において、早くから稲作が行われ、ムラの数も爆発的に増え、また、クニとしてのまとまりが生まれた地域である。

 

それらのクニの中には、奴国や邪馬台国のように、大陸に使者を送るほどの力をたくわえたものも現れた。

 

歴史の中ではじめてクニとクニとの戦争が起き、弥生時代の後期には「倭国大乱」と呼ばれるたくさんのクニをまきこんだ大規模な争いが起こった地域だ。

 

そうした地域で生き残っていくためには、人とのつながりを駆使し、様々な情報を取捨・分析し、慎重に判断する能力も必要である。

 

 

時代が下った戦国後期、毛利元就が死去すると、豊後の大友義鎮(宗麟)は、豊後をはじめ、筑前・筑後、肥後、肥前、豊前の6カ国の守護職を所有し、「九州王」とまで呼ばれるほど隆盛を誇った。

 

この時期、宗麟は、筑後の国の離反を恐れ、間諜(スパイ)を数多く送り込み情報収集を行うとともに、農民による密告も奨励したという。

 

このため、筑後人はあらぬ嫌疑をかけられぬよう、言葉に気をつけ、用心深く立ち振る舞ったという。 

 

  

一方、筑紫の国の東側はどうなのか。

 

新羅系渡来人の足跡が、数多く残る地域である。

 

奈良の正倉院にある大宝二年(七〇二)の「豊前国戸籍台帳」によれば、香春、田川では、その総人口の九三%までが新羅系の渡来人であったと記されている。

 

新羅系の渡来人は、高度な鉱石の採掘・精錬技術を持った集団、今日いうところのテクノラートである。

 

そうした技術者の集団は、資源の所在や技術革新に強い関心は持っても、世事には関心が薄かったのではないかと思う。

 

 

赤い玉と白い玉の話には、こうした両地域の太古の歴史がつながっているのかもしれない。

 

いずれ、ゆっくり考えてみたい。

 

 

 

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