明日1月7日は、一年最初の五節句である「人日(じんじつ)の節句」。
日本では、古くから、この日の朝、春の七草を入れた『 七草がゆ 』を食べる風習があり、今も続いている。
この風習、もともと日本にあった七種類の食材で作った粥を食べて健康を願う風習と、中国から伝わった「人日の節句」の風習が混成し、日本に根づいたと言われている。
『 七草がゆ 』と言えば、白米と春の七草、塩で作るのが一般的だが、何かしら腑に落ちなかった。
庶民が白米の粥を食べられたのだろうか …
かつて、正月15日の「小正月」、「七種粥ななくさかゆ 」を食べたとする文献が様々あって、しかし、ここで言う「ななくさ」は「七種類の菜」ではなく、「七種類の穀物」で作られた粥だ。
入っていたものはコメ、アワ、キビ、ヒエ、ミノ、ゴマ、アズキ、また、クリ、カキなども使われたとされる。
享保15年(1730年)に書かれた『 古今沿革考 』では、
ー 今世正月七日粥に入、七種の若菜を入るるは、十五日の七種のかゆをとりちがへたる物なり。十五日の七種は、白穀、小豆、粟、栗、柿、小角小豆等なり。是をかゆに入れ調じたるなりー としている。
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さらに言えば、米を主食にできたのは上流階級だけで、庶民の主食は雑穀やマメ、イモ類だったという主張がある。
かつて、日本の農民は米作民であったけれども、米食民ではなかった。
一般の人たちが米を食べるようになったのは、第二次世界大戦中の配給制度が発達してからであると。
米を作る人は米を食べず、米を侍や都会人に供給する。米は商品だからである。
祭礼や慶祝行事などのハレの席で、米を食べられることを何よりの楽しみにしていたともいわれる。
また、臨終が近づいた時、この世の最後の思い出として米がゆを食べさせたという伝承もある。
庶民の食べる粥ならば、雑穀が主役でしょ。
雑穀なら、何と言っても『 粟 』だ。
そうは言っても、粟って何ですかって人も少なくない。
知っていても、せいぜいインコや文鳥など小鳥のエサ。
まぁ中には、モチアワを材料とする大阪名物の菓子「岩おこし」や京都の粟餅、夏菓子「粟羊羹」やアワフ( 粟麩)で知ってる方もいらっしゃる程度。
粟粥なんて言うと、上海、台湾などの中華料理と考える方が多いと思う。
決してそんなことはありません。
粟にまつわる話を一つ。
奈良時代前期の元正天皇は、新家皇女ともいった女帝である。
農業、とくに稲以外の粟を代表とする畠作物の植付けを奨励した天皇である。
霊亀元年(715年)10月、詔を出し、諸国の百姓が稲作に頼りすぎて「 陸田の利を知ら ず 」としたうえで、国司を督励し「 百姓に麦と禾(あわ)の両方を植えること、男夫一人ごとに二段」とした。
そのあと「 凡そ粟の物たる、久しきを支えて敗れず、諸穀のなかにおいて、もっとも 精好なり」と評価し、百姓の納税(租)を稲に代えて粟でしようとする者がいたら、 これを聴せと命じている(『 続日本紀』)。
この詔でうかがえるのは、陸田作物の代表が麦とアワであること、とくにアワ については禾と粟を使い分けているだけでなく ” 長年のあいだ人びとの生活を支える中心に ありつづけ、いろいろな穀物のなかでのもっとも精好なものだ " と断言している。
やっぱ雑穀なら粟でしょ。
話しが長くなるので、今日はこの辺で …
明日はアワの粥です。
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