尾根に立つ墓石 … / 西海道古代史の迷路

 

30年ほど前の話。

 

定年後にキャンプ場をやりたいという先輩がいて、キャンプ場の候補地を一緒に見に行った。

 

嘉麻市から朝倉市へとつながる旧八丁峠の麓 ー おそらく「千手」あたり- から、山間の道へと入っていった。

 

そして、『 ポツンと一軒家 』さながら、車一台がようやく通れるほどの無舗装の路を延々と上っていく。

 

やがて、古処山、塀山など筑紫山系のどこかの尾根にたどり着いた。

 

狭隘な谷間に、草に覆われた棚田や畑があり、それを見下ろす尾根付近に、一軒の平屋建ての廃屋が建っていた。

 

麓の人家まで、歩けば3時間はかかるのではないかと思う場所だった。 

 

 

” ちょっと手を入れれば、いいテントサイトになる ”

” 建物も管理棟として使える ” と先輩は楽しそうに言った。 

 

建物の裏手に小径が見えた。

 

先輩は ” 行ってみよう ” と言って、小径を登り始めた。

20メートルも歩かないうちに視界が開けた。

 

眼下には、平野と山並みが広がっていた。

そして振り返ると、そこに十数基の墓石が並んでいた。

 

今時の墓石ではない。

長い星霜を経て苔むす墓石。

大きくはないが、どこか威儀が漂う。

 

墓石の数からすると、最初の墓は400~500年が推し移っているのでは …

 

落ち武者の墓 … ?

尾根から下に広がるどこかの地に住んでいた方々なのだろうか …

先祖への想いが感じられた。

  

ふと秋月氏のことが脳裏に浮かんだ。

 

 

 

 

秋月氏と言えば、平安時代後期から九州に土着した松浦氏や蒲池氏など他の豪族と同じ平家の家人である。

 

一時期は、筑前に六郡、筑後に四郡、豊前に一郡と推定36万石にも及ぶ広大な勢力範囲を築き上げた氏族だ。

 

ちなみに、所領の古処山には、1203年、秋月氏の先祖である原田種雄が築城した古処山城があった。

 

山麓には平時の居館として秋月氏宅所(杉本城)が建てられたとされ、現在の秋月城(秋月陣屋)付近に所在したとされる。

 

1557年、大友氏による猛攻により陥落し、城主秋月文種は自害、次男秋月種実は毛利元就のもとへ落ち延びた。

  

古処山は秋月藩の隠し砦(大将隠し)の山城がある山で、黒澤明監督が秋月城や大将隠しなどの史跡を基に『 隠し砦の三悪人 』を脚本、三船敏郎の主演で映画化している。    

 

また、2008年には、松本潤、長澤まさみ、阿部寛などのキャストによるリメイク版が公開された。 

 

 

キャンプ場の話に戻ると、

並ぶ墓石を見た先輩は急に押し黙り、” 帰ろう ” とひと言。

結局、キャンプ場のことはあきらめたようだ。

 

おそらくはその地に、何かしら、哀しみの情念のようなものを感じたのではないだろうか。

 

 

 

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ー 秋月・筑紫の落城 <筑前戦国史 𠮷永正春> ー

  

 

門司合戦に敗退した毛利は、その後間諜を放って北九州の情勢を探り、豊筑の諸豪を次第に味方につけて再び大友と雌雄を決しようとしていた。

 

まず古処山の秋月文種(種方ともいう)、五ケ山の城主筑紫惟門らに密かに使を遣わし て、「味方に力を戮せられ候はゞ大友義鎮を討て後勧賞として豊前、筑前を両人に進じ置き候べし」(『 陰徳 太平記』)と言って味方になるよう誘った。

 

秋月、筑紫は大友の支配を喜ばず独立の機会を狙っていたので、毛利からこの誘いを受けると早速協議 し、「芸州、豊州勝敗の理を考ふるに元就は弱年より干戈を枕にし金革を袵にし霜辛雪苦して敵国を切取り已に芸、石、備後、備中、防、長、豊、筑を幕下に服せしめたれば合戦の鍛錬密察なるべし、義鎮は生れながらに数ケ国の主となってその上、年若ければ武事の工夫少し是を以て思へば成否論ぜずして分明なり」(『 陰徳 太平記』)として毛利と手を結ぶことになり、近辺の国人たちにも毛利に味方するよう働きかけ、大友方の諸城を攻めるための密議を凝らしたが、「壁に耳あり」というわけでこのことがいち早く豊後府内に伝わった。

 

激怒した義鎮(宗麟)は直ちに弘治三年六月下旬、二万余騎の兵をもって戸次鑑連を大手の大将とし、また、高橋三河守鑑種、臼杵鑑速を搦手の大将にして、そのほか吉弘、佐伯、志賀、田北、一万田、吉岡、朽網らの部将たちを秋月征伐に向かわせ、大友軍は甘木周辺に続々と集結した。七月八日から始まった城攻めは苛烈な戦いとなり秋月も懸命に防戦したが、何しろ大友方は大軍であり、あとからあとから攻め寄せたので文種の嫡男晴種は討ち死にし、文種も次第に力尽きて、同月十二日、炎々と燃えさかる古処山城で自刃して果てた。

 

『西国盛衰記』によれば、「城兵小野四郎右衛門、逆心を企て、主人秋月を殺して降参す」とあり、また、『九州諸将軍記』には、「秋月が長臣古野四郎右衛門兼ねて文種を恨む事あって、寄手に内通し、敵勢を城内に引入れける程に……」と記されて、最後は自害したことになっている。

 

このように前後に異同はあるが、いずれにしても秋月落城の陰には、家臣の内応があったものと見られる。

 

落城寸前、文種は近臣大橋豊後守(『秋月家譜』には僧高韵となっている)を側近く呼んで、三児の将来を託した。再び『西国 盛衰記』の言葉をかりると、「此時 大橋豊後守は、小野には似ず、忠臣の道を守り、文種の幼子三人を伴ひ、 防州山口に落行きて、年月を送りけるが、其後再び九州に威を振はれし秋月長門守種実、 高橋右近大夫種冬、 長野三郎左衛門尉種信と云ひしは、 此三人の子供なり」とあるように、大橋は主君文種の遺命を奉じて当時十四歳であった種実をはじめ、種冬、種信の三児を連れて亡命し、山口の毛利氏を頼ることになった。

 

のちに、この秋月の遺児たち が成長して、仇敵大友を徹底的に苦しめることになるのである。 特に種実は後に元就の長男毛利隆元と義兄弟の盟約をして、太刀一振を贈られている(『 毛利家文書』)。それを考えれば、この時三児をとり逃したことは、大友にとって九仞の功を一簣に虧く結果となった。このように秋月は大友によって潰滅的打撃を受け滅亡状態となった。