生まれ育った筑豊には、誇るべき古代の歴史もなければ、さしたる伝統・文化も存在しないと思っていたある日のこと。
西日本新聞の1面に、北部九州と畿内の地名・位置が酷似していること、そしてこれは、北部九州のある集団が、畿内に移動したをことを示す証跡である旨の記事が掲載された。30年以上も前のことである。
誰の立論だったかかは全く覚えていないが、安本美典氏の説だったのかもしれない。
当時の記事を確認することはできないので、安本美典氏の著書の記述を記載する。
<北部九州>
(北の笠置山からはじまって、時計の針の方向と逆に一周すれば)
笠置山 → 春日(かすが)→ 御笠山 → 住吉(墨江)神社 → 平群(へぐり)→ 池田 → 三井 → 小田→ 三輪 → 雲提(うなで)→ 筑前高田 → 長谷山 → 加美(上)→ 朝倉 → 久留米 → 三猪(みずま)→ 香山(高山)→ 鷹取山 → 天瀬(あまがせ)→ 玖珠(くす)→ 上山田 → 山田市 → 田原→笠置山。
<畿内>
(北の笠置[笠置山]と同じく時計の針の方向と逆に一周すれば)
笠置(笠置山)→ 春日(かすが)→ 三笠山 →住吉(墨江)神社 → 平群(へぐり)→ 池田 → 三井 →織田 → 三輪 → 雲梯(うなで)→ 大和高田 → 長谷山 → 賀美(上)→ 朝倉→ 山田 → 久米 → 水間→ 天の香山(高山)→ 高取山 → 天ヶ瀬 → 国樔(くず)→ 上山田 → 山田 →田原 → 笠置山。
その地名・位置はもちろんだが、とりわけ驚かされたのは、北部九州の笠置山や山田のことだった。
笠置山は、筑豊地域のほぼ中央の宮若市に位置する。山田は旧山田市(現嘉麻市)で、筑豊地域南部のどんつきに位置する田舎町だ。
京都や伊勢の地名の元が、筑豊の笠置(宮若市)、山田(山田市(旧))、そして田原(川崎町)…
ってこと…? そっ そんなことが… と疑いつつも…
以降、筑豊に対する見方が劇的に変化したことは言うまでもなく、こうしたことの根拠とされる書紀や風土記、神社の由緒書きなども真面目に読むようになった。
<「西海道古代史の迷路」はこちら>
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