筑豊で、生まれ育った。
成長の過程で形成されていった表象の中心は、「炭鉱」である。
筑豊は、炭田から産出される石炭により、かつて我が国の四大工業地帯の一つであった北九州工業地帯とともに発展した地域だ。
ボタ山、炭坑節、遠賀川、川筋気質、「花と龍」、「青春の門」…
そこに登場する博徒・やくざ者たち。
荒々しく、多くの無法者がいる世界…
そんなイメージが形作られていった。
石炭の運搬路であった遠賀川は、福岡県嘉麻市の馬見山に源を発し、彦山川、犬鳴川などの支流を合わせながら筑豊地方の平野部を流れて北部の響灘へと注ぐ。
明治以降の国策により、遠賀川の下流から上流へ遡るように炭田の開発が進むことで、急激な発展を遂げた地域。
そこには、誇るべき古代の歴史もなければ、さしたる伝統・文化も存在しない。
不勉強な私は、そんなふうに思っていた。
” 山向こうには、鬼がでる ” ” 筑豊は、鬼の住むまち ”
甘木の人々は、かつてそう思っていたという。
旧甘木市は、福岡藩の支藩秋月藩の城下町として栄えた地域だ。
山とは古処山で、八丁峠を越えると旧嘉穂町に出る。
旧嘉穂町は、碓井町(旧)、山田市(旧)、稲築町(旧)になどに接し、その先は飯塚市や田川郡などで、いずれも数多くの炭鉱が存在した地域だ。
かつての城下町に住む人々からは、筑豊は荒くれ者の住むまち、まさに「修羅の国」に見えたのかもしれない。
現在でも、甘木・朝倉の人々に限らず、こうしたイメージは払拭されてはいないだろう。
私は、この「筑豊」という呼び名が好きではない。
筑豊という名称は、またがる地域の旧国名である「筑前」と「豊前」の頭文字をとったもので、明治以降、石炭産業の発展を背景に新しく生まれた地域区分であり、歴史のある名称ではない。
ところで、豊前豊津出身の思想家・歴史家の堺利彦は、その自伝の中で、
「 筑前、筑後、豊前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくなかった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。
福岡県というものは、私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。
私はどこまでも、豊前人でありたい。ただし豊前の中でも、北部の六郡の元小倉領だけに親しみがある。」 と記している。
” 故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、豊前人でありたい。” の言葉ほどの思いをもっていた堺氏は、うらやましい限りだ。
30年ほど前、筑豊に関する本と言えば、炭鉱にまつわるものばかりだった書店の郷土史コーナーで、「遠賀川流域史探訪」と題する書籍を見つけた。
著者は、林 正登 氏。福岡教育大学で教鞭を執られていた方で、本の帯には、以下のように記載されていた。
ー 縄文・弥生時代から石炭の流域史までー
遠賀川流域の各時代を自然と人々の生活を軸にひもとく初めての流域通史。貝塚群・古墳等古代文化、中世の荘園と麻生氏・海民の活動、近世の堀川運河と川筋百姓の記録、そして、石炭の発見から流通まで。
初めての遠賀川流域通史の言葉に、大いに興味をそそられ購入したのだった。
先ずもって驚いたのは、第1章「古遠賀湾と縄文人の生活」に掲載されている「古遠賀湾推定図(縄文時代)」だった。
私は、古遠賀湾の存在を知らなかった。
概して言えば、
「縄文時代の遠賀川流域は深い入り江をなし、湾の最大幅およそ4キロ、東の洞海湾と通じ、岬や小島があちこちに散在し、海岸線の出入りは複雑多岐を極めていた。
遠賀川の河口は、現在よりもはるか上流の直方、小竹、飯塚の一部であったと考えられる」と。
つまり、直方、小竹には海があったことになる。
これは地質調査や考古学的調査などを踏まえ、学術的に承認されたことで、国土交通省や直方市のHPにもそのことが記載されている。
また、記紀万葉集研究家の福永晋三氏は、「遠賀川と彦山川流域は、弥生時代、現在の飯塚市や糸田町付近まで深く湾入した海だった」と述べている。
<「遠賀賀川ってこんな川(PDF) - 国土交通省 九州地方整備局」>
いにしえの筑豊地域には海が存在し、その海浜に残された縄文人・弥生人の貝塚や遺構。
こうしたことは、古代史を考えるうえで、それまで思いも寄らなかった新たな視点を与えることになる。
そしてそれは、福永晋三氏による邪馬台国の比定や「古代田川に天皇がいた」につながっていくのである。 (つづく)
<「 ー 西海道 古代史の迷路 ー」はこちら>
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