ものの値段が「高い」という時、概ね二つの意味が考えられます。
①同一の商品で、A店の価格とB店の価格を比較する
②何となく、漠然と「高い」と感じる
①の場合、想夫恋のお店同士の比較ならあり得るのでしょうが、それ以外の比較は適当ではありません。
もし、「想夫恋の焼きそば」と他店の焼きそばとの比較であるならば、「焼きそば」というの名前が付いているからといって、そもそも、全く違うものを比べているのですから、「美味しい」「好みではない」といった味に対する評価ならともかく、高い安いを云々するのはナンセンスなことなのです。
②の場合、
「焼きそばで△△円?」、そして、よく見られる「焼きそばにしては高い」の表現、
「~で」、「~にしては」は経済学で言うところの「習慣価格」の概念ですね。
特定の商品に対して、消費者が習慣的に認めている価格のことで、
つまりこの場合、高いと思う人がそれまでに食べてきた「焼きそば」という商品によって形成された習慣価格と、想夫恋の焼きそばの価格を比較して高いと感じたわけです。
「…にしては」の(…)の言葉を他の何かに換えて考えてみて下さい。
例えば「寿司」の場合、一皿いくらの寿司チェーンの回転寿司しか食べないような人は、いわゆる本物の寿司屋の価格は高く感じるかもしれません。しかし、同じ「寿司」と言っても両者の違いを認識しているので、「寿司にしては高い」と言う人はいませんね。
上記のとおり、②の「…にしては」の場合、想夫恋の焼きそばに限らず言えることで、とくに根拠があるものではなく、その個人の、経験、収入、ライフスタイル等によって意識づけられたものです。
そして、「にしては」は、一見、そう感じているであろう多数の中で、それを代表しての一般的な意見であるかのように見せて、実は、「私にしては」「私の生活、人生においては」と同意の、その個人の気持ちを表現している言葉です。
また、時々見られる「焼きそばごときに…」。これはもう論外ですね。言葉の使い方が不適切であることは勿論のこと、品性、見識・思慮、他者に対する思いやりが全く欠如した極めて幼稚な人の表現としか言いようがありません。
もう一つ付け加えるなら、食べ物は個人の嗜好によって、大きく評価が異なるのは自明の理。そしてその評価が、価格の高い安いという感覚にも影響を及ぼします。「美味しくない」「まずい」と感じたから、これを「高い」と表現する人がいる。
しかし、この「焼きそば」を食べるという日常的な行為も、「双務契約」であり「有償契約」です。「焼きそばの提供を受ける」、これに対して、決められた「対価」を支払う。お互い納得づくの契約行為です。食べてみて、美味しいと思わなかったから「高い」というのは大人げないですね。
そしてそこには、焼きそばを真摯に作っている人がいる、それを美味しいと感じている人がいる。そのようなことを理解したうえで他者に配慮し、「高い」と表現するのではなく、「好みではない」「自分の口に合わなかった」と表現するのが常識ある人だと思います。
いずれにしても、想夫恋が高いと感じた人は、想夫恋の焼きそばを食べて得られた効用と、支払った金額が折り合わないと言うのでしょうから、浅慮をさらすよりは、それが折り合える店を選択するのが良いと思うのです。
最後に、「想夫恋は美味しいけど高い」という意見もいただきました。商品の価格を決定する要素は様々ですが、想夫恋の場合、品質管理に相当のコストをかけ、提供されていると思います。価格を下げれば、当然「味」は落ちるでしょう。それでは元も子もありません。
そして、この場合の「高い」もまた、②の習慣価格です。想夫恋を、美味しい、食べたいと思う人は、適宜、自分の懐具合で決めるのが良いと思いますね。
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