数日前、西日本新聞に、
” 米兵の家庭レシピを翻訳 ”
基地撤収50年西戸崎 地元料理家奮闘中
こんなタイトルの記事が掲載された。
福岡市東区西戸崎で駐留米兵の妻らが1960年代にまとめたレシピ本の翻訳に挑んでいる人がいる …
※ ※ ※
基地撤収50年か …
棚から1冊のパンフレットを取り出した。
写真のパンフレットは、平成31年(2019年)の2月、志賀商工会が発行したパンフレットである。
表紙を開くと次の様に書かれている。
僕の街にはアメリカがあった。
僕たちはアメリカ人を「ハロー」と呼んでいた。
みんなバイクが大好きで自慢のバイクを乗り廻していた。
僕の弟をバイクをタンクの上に乗せて町内を一周してくれた。
アメリカに帰国するために、かわいがっていた
血統書付きの「デナ(Dyna)」と言う名のメスのシェパードをくれた。
時々聞くスタンドバーの扉の向こうから、いつもアメリカのロックが聞こえていた。
街にはフォードやシボレーが走り、商店街の看板は横文字だった。
ハローはみんな陽気で優しかった。
何もない時代に珍しいものがいっぱいあった。
あの頃僕たちが普通に見ていた景色は、宝物だったのかもしれない。
ここで言うアメリカとは、かつて福岡市東区の雁の巣、西戸崎にあった米軍飛行場・基地と関連施設、そしてそれを取り巻く街のことだ。
見出しを見ると
・ そこはまさにアメリカ
・ マリリン・モンローが訪れた街
・ 海の中道海浜公園は元米軍基地だった
・ うみなか再発見
・ うみなか探訪マップ
・ 西戸崎を愛したデイブさんからのメーッセージ
・ 不思議一杯!志賀島
この米軍飛行場は、かつての福岡第一飛行場だ。
日本の逓信省航空局が福岡県糟屋郡和白村(現在の福岡市東区)雁ノ巣に設置した飛行場で、通称は雁ノ巣飛行場(がんのすひこうじょう)である。
大日本航空によって朝鮮、台湾、中華民国、東南アジアへの路線が運航され、戦前における国内最大規模の民間飛行場であったが、太平洋戦争中は海軍航空隊が置かれるなど実質的に軍用空港であった。
戦後はアメリカ軍に接収され「ブレディ飛行場」(Brady Air Base)の名称で主に輸送部隊の飛行場として使用された。
1961年(昭和36年)の日米合同委員会で、キャンプ博多・ブレディ飛行場・西戸崎通信施設の三施設を統合し、「雁ノ巣空軍施設」として在日米軍に提供することが合意。
アメリカ3軍の部隊が共同で軍事活動を行い、朝鮮戦争では米軍の輸送第一線の基地となり、旧博多海軍航空隊の建物は負傷兵の収容病院として使わている。
このとき、雁ノ巣飛行場で働いていた旧大日本航空の技術者が輸送機の整備もに従事している。
その後、アメリカの国防予算と海外展開兵力の削減によって施設は閉鎖され、飛行場部分は1972年(昭和47年)、雁ノ巣空軍施設全域は1977年(昭和52年)に返還された。
多くの米国軍人や軍関係者が駐留していた頃は、殷賑を極めていたであろう。
あのマリリン・モンローとジョー・ディマジオが新婚旅行で訪れたんだ …
街には、アルファベットの看板が溢れていて …
往時への追慕に満ちたパンフレットだ。
興味深くはあるが、引っかかる。
これを作成したのが、私人であるならば何も言うことはない。
がしかし、発行者は商工会である。
商工会とは、準公共的団体であり、毎年、多額の補助金を受けて運営されている。
地域活性化の一環と言うのだろうが、私的ノスタルジーと趣味が匂いすぎる。
税金をこうしたものに使うとは …
ところで、数年前、こんなタイトルの記事が掲載された。
米国占領下、強いられた沈黙 従軍の傷痕、脚に心に <毎日新聞 2020/6/25>
1950年の朝鮮戦争の際、少なくとも日本の民間人男性60人を米軍が帯同し、うち18人は戦闘に加わったことが確認された。
毎日新聞は22日、米国立公文書館(NARA)に所蔵された「韓国における日本人の無許可輸送と使用」というタイトルの米軍の極秘文書を入手し、このように報じた。
同紙によると、日本の民間人60人は50年7月ごろ渡航し、翌51年1~2月に帰国した。
60人中27人に武器が支給され、18人が戦闘で使用した。
約800ページの報告書によると、10~20代が46人で最も多かった。
20歳未満の少年が18人おり、9歳の子どももいた。
48人は在日米軍基地従業員だった。渡航理由について、「基地の上官に誘われて」という証言が多かった。日本の民間人が朝鮮戦争で戦闘に加わったという事実が明らかになったのは初めて。
「日本へ帰れなくなることも覚悟した」。
福岡市東区西戸崎の●●●子さんは、夫■■さんが生前漏らした言葉が今も脳裏から離れない。
博多湾北端の西戸崎から玄界灘をはさんで北西へ約200キロ先にある朝鮮半島。
70年前、武夫さんは海を渡り、戦場に立った。
家族には多くを語らないまま、13年前に亡くなったが、■■さんの尋問記録が米国立公文書館所蔵の極秘文書の中に残って …
1945年の終戦から、約30年もの長きにわたり、此の地に米軍基地が居座り続けていたことに何の問題意識も持たないのだろうか …
現在でも、日本国内には130以上の基地を含む米軍施設がある。
横田基地(東京都)、厚木基地(神奈川県)、普天間基地(沖縄県)など、在日米軍基地の多くが人口密集地付近に位置するため、騒音・事故など深刻な問題が起こっている。
その元凶は、「日米地位協定」に他ならない。
これについて、今日は触れないが、国際法が、原則として非戦闘員や非軍事施設への攻撃を禁止していた中、アメリカは、広島、長崎への原爆投下、430市町村に対する爆撃を行い、60万人以上ともいわれる無抵抗な民間人を殺戮しているのである。
一方、我が国と言えば、
第二次世界大戦直後、連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐと言う名目で、占領下の日本政府によって売春施設を設置した。
一般にRAAと呼ばれる。
RAAは、「レクリエーション&アミューズメント・アソシエーション」の略で、「特殊慰安施設協会」と訳される。
1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが全国に開設されていった。
昨日まで、天皇陛下を神とあがめ、「鬼畜米英」を叫び、「一億玉砕」などと言って拳を振るっていた人間たちが、次の日から「これからはアメリカだ」「民主主義だ」なんて言い出し、その挙げ句のことだ。
阿諛追従以外の何物でもない。
そして、そんな暗黒の過去から目を背け、アメリカ軍を懐かしむか …
何もわからない子どもの時ならいざ知らず、老人になっても、
” ギブミーチョコレート ”
それが ” 宝物 ” ってことか …
ところで、今日、返還後の雁ノ巣飛行場の一部はスポーツ施設群を有する公園となっている。
その名称は『 雁ノ巣レクリエーションセンター 』。
何とも皮肉なネーミングだ。
<「 国破れて ... 『 お・も・て・な・し 』/ ふと想起される言葉 vol. 35 」はこちら>
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